岡山大安寺高校ハンドボール部
火曜日から毎晩、会議と
飲み会、懇親会が連日連夜続く!
今の私の仕事上のストレスも相まって
私の体と心は、ある意味で限界スレスレ!
来週の予定表を見ると、来週も同じペースで
深夜まで仕事の予定が入っている。
今の私には断る勇気が必要だ!!
金曜日、岡山大安寺高校のハンドボール部のOBの
飲み会があった。
同期のハンドボール部の友人とは、1年に1回や2回は
集まって飲むことも多い。
しかし、私の記憶の許す限り、先輩や女性部員も含めて、
そして顧問であった永井先生をお呼びしての飲み会は
私が高校を卒業して28年間で初めてのことであった。
今回は、ハンドの大安寺高校15期生と16期生で、今岡山に住んでいる
OBが20名程度集まった。
顧問の永井先生は、大安寺高校に来られる前に
倉敷天城高校で顧問をしており、天城のハンドボール部で県下有数の学校にしたことで、この世界では有名な先生であった。
昔、徳島の池田高校野球部が蔦先生の顧問の元、
甲子園でも頭角を現したように、高校の部活の成績は
ある面で指導者で決まると言っても過言ではない!
(歯科医院の成績は、院長で決まると言っても過言ではない!!)
永井先生の指導は厳しかったが、永井先生の指導のもと
岡山大安寺高校のハンドボール部は当時、岡山県内で
メキメキと頭角を現して、ベスト16ではなくて
ベスト4の常連とまでなっていった。
私たちの世代はメンバーに恵まれ、朝日高校の教諭をしているSや
内科医師をしているNの活躍で、インターハイが狙えるとまで
言われていた。
高校の野球部部員の目標が甲子園に行くことのように
高校の他の部活部員の目標はインターハイに行くことだった。
私たちはインターハイ予選を目指して頑張った。
その時に私が強く感じた事は、SやNの凄さだった。
背も高く、運動量も豊富で、もともと運動神経も凄いSやNだったが
私との一番の違いは別の所にあった。
練習でも試合でも、私は自分で思うところの限界が来たら、
それ以上は決して無理はしなかった。
死闘を繰り広げた試合では、SやNは試合が終わるとそのまま
グラウンドに倒れ込んで、しばらくは立ち上がることすら出来なかった。
私はと言えば、試合が終わって数分すれば、完全に元に戻り
普通に歩いていた。
ある時点を超えた時に、あと一歩頑張れるかどうか?それが非凡な選手と平凡な選手の違いであることを私は高校時代に学んだ。
私たちの、今の仕事も同じである。
誰でも仕事はしんどいし、40代も後半になると、体力も落ち
診療時間が終わりに近づくと、時計が気になり始める。
しかし、SやNは違った。
最後の最後まで全力を尽くす!
これがプロのやり方だ!!
私たちが高校3年の時の、インターハイ予選、
死闘が繰り広げられた。
「絶対、インターハイに行ってやる!」
私たちは一致団結して頑張った。
ベスト4か16での、水島工業との試合は白熱した。
当初は私たちがリ-ドしたが、途中で逆転され
その後もシーソーゲームは続いた。
試合終了のホイッスルが鳴り、私たちは
水島工業に僅差で敗れた。
部員全てが悔しさに涙を流し、その場でグラウンドに崩れ落ちた。
キャプテンのSが大泣きをしながら、顧問の永井先生に支えられて
足を引きずりながら、グラウンドを後にしたことを、私は今でも覚えている。
その年は水島工業がインターハイに出場した。
いつもは、試合に敗れると、無茶苦茶怒られた顧問の永井先生が
この試合の後は、「皆よく頑張った!」と涙を流しながらねぎらってくれた。
その永井先生は28年ぶりに会う私のことを覚えてくれていた。
それが一番うれしかった。
私たちの1つ先輩で、キャプテンだったT先輩は
私のことを完全に忘れていた。
「どうしても思い出せない!おまえ誰??」
でも私はT先輩やN先輩に、無茶苦茶
しごかれたことを、絶対忘れませんから!!