院長紹介 Director
なかの歯科・矯正歯科クリニック院長の「中野 浩輔 (なかの こうすけ)」の紹介ページです。
歯やお口にお悩みがあれば、メールやLINEで無料相談を承っております。
Contents 01
院長ごあいさつ
当院WEBサイトを訪問していただき、ありがとうございます。院長で歯科医師の「中野浩輔(なかのこうすけ)」です。
当院は「ありがとう」の言葉と、笑顔が溢れる歯科医院を目指して、チームスタッフが来院される患者様に、少しでも喜んでいただけるよう常に努力しています。
歯医者にかかることは誰でも不安になるものです。私も幼いころは歯が弱く、よく通院していましたから、その気持ちはよく理解できます。だからこそ、不安な気持ちを少しでも和らげるよう患者様とのコミュニケーションを重視し、フレンドリー&プロフェッショナルな対応を心がけています。
当院の基本三原則「待たせない」「痛くしない」「よく説明する」を開院以来、重視してきました。これからも三原則に則った歯科サービスをご提供していきますので、歯に関するご相談事・お困りごとがあれば、いつでもお気軽に私共へお申し付けください!
1963年3月11日生まれのA型。2児の父です。
趣味は主に2つあり、まずは料理、得意料理はアクアパッツァと鯛のリゾットです。
もうひとつが旅行で、好きな都市はバンコク、ソウル、香港です。学生時代はバイクで日本中を旅しましたが、今はアジアを中心に海外旅行へいきます。
略歴
所属団体・役職
- 岡山大学歯学部同窓会 前会長
- 岡山歯学会 前副会長
- 朝日医療大学校 講師
- 臨床研修指導医
- JMMインプラント臨床マイスター
- JSOI口腔インプラント専修医
- インプラントZERO セミナー講師
- 近未来オステオインプラント学会 会員
- 介護支援専門員(ケアマネジャー)
- 大野幼稚園学校歯科医
- リハビリテーション学会認定医
- 広島SJCD 岡山支局顧問(前 広島SJCD理事)
- 日本補綴歯科学会会員
- 日本審美歯科学会会員
- 日本歯周病学会会員
- アメリカ審美歯科学会(AACD)会員
- SJCD(Society of Japan clinical Dentistry)会員
- JIADS(Japan Institute for Advanced Dental Studies)会員
- 岡山政経塾6期卒業
- 大前研一経営塾16期卒業
- JAPAN MENSA会員 ※上位2%のIQ(知能指数)を持つ人達が参加する国際グループ
賞状・認定書
Contents 02
私が歯医者になった理由
2020年代(2020年~2023年)、2010年代(2012年~2019年)の参加経歴をまとめています。
虫歯のできやすさ
私は実は小さいときから虫歯ができやすい子供で、昔から虫歯の治療に歯科医院によく通ったものです。思い出すのは小学校4年生の虫歯検診の日。もらった紙には何と「虫歯12本」と書かれていました。その次の日から私の歯医者通いが始まりました。
夏休みも毎日のように虫歯治療のつらい日々です。そのころ(30年前)の歯科医院は予約制とはいっても患者さんが多いため1時間の待ち時間は当たり前、虫歯治療にもあまり麻酔をしてくれません。麻酔をしてもらってもこれがとても痛い、特に歯の裏側の麻酔の痛さは今思い出しても体が硬直します。
歯みがき指導などは一度もありませんでした。
そしてつらく長い歯科治療が終わり、意気揚々と受けた小学校5年生の虫歯検診の日。虫歯ゼロの言葉を信じて疑わなかった私に歯科医師は虫歯8本の宣言を無情にもするのでした。
私はそのとき思いました。「人間の歯っていったい何本あるんだろう?」そして私の歯にはどんどん銀歯が増えていくのでした…
祖母と自分の歯科体験
院長先生は私の祖母に向かって「あんたの顎は特別に出来が悪い。もううちには来んでくれー!見てみろ。うちはこれだけ沢山の人が待っとる。もっと暇な歯医者に行ってくれー!」それを言われた普段は感情を余り表に出さない祖母の顔がみるみる紅潮していったのを覚えています。
大勢の人の前で恥をかかされた祖母と私は逃げるようにその医院を後にしました。
そして私は「痛くない歯医者」「患者さんと対等の立場に立つ決して偉そうにしない歯医者」そして「優しくて腕のいい歯医者」になろうと心に誓ったのです。
運良く私が高校在学中に地元の岡山大学に歯学部が新設され、私は岡山大学歯学部の2期生として入学することになったのです。
しかし大学に入っても私の歯医者通いは止まりません。学生の時に矯正治療も受けましたし、矯正のための抜歯時には、若い医局員の先生は私の歯を抜くことができず、3時間の苦闘の末結局だめで、後日、上の先生に代わってもらい抜いたこともあります。(涙が出るほど痛かった!)矯正治療でもスペースがうまく閉じず、ブリッジの処置も受けました。
親知らずも沢山抜いたし。私はインプラントと取り外しの入れ歯以外は我が身を持って色々な歯科治療を実際に体験している歯科医師なのです。(自慢にならないって!)
そして卒業後も多くの先輩方との出会いにより「虫歯を予防する歯科医師」になろうと新たに心に誓うのでした。
Contents 03
歯科医師「中野浩輔」の
道のり
私は昭和38年3月11日に父博史、母道子の長男として、岡山市矢坂(今の歯医者の前)で生まれました。父は地元の新聞社で記者をしていました。母は服飾関係の仕事をしていました。共働きの家庭とはいえ、当時の我が家は裕福な家庭では決してなかったように思います。しかし父が仕事柄か?本が好きで、私に対しても本を読むように薦めることが多くて、本だけは私が欲しがるものは全て買ってもらったように覚えています。その反面とても厳しい父でもあり「私はスパルタ教育だ!」と当時父は周りによく言っていました。
悪さをすると、反省するまで今でも当院の前にある蔵(くら)によく閉じ込められたものでした。その当時でも「蔵」は暗くて怖くて古い埃が被っていて奥に魔物が住んでいるような小さな子供にとっては恐怖そのものの空間でした。大きな声で蔵の中で「出して!怖いよー!!」と泣きじゃくったものです。
その時から私は泣き虫になりました。今でも映画をみても金八先生を見ても、すぐに泣きます。
そんな泣き虫だった私も、小さな頃はとても体が弱かったようで、何度も大きな病気を繰り返しました。何度も何度も病院で注射を繰り返したので、私の両腕はしまいには皮膚が張り付いてしまい、両肩の下の表部分は筋肉が付かないままで大きくなりました。
また体が弱かったためか?食が細かったためか?私は小さい時から虫歯ができやすい子供で、物心ついた頃から病院以外に虫歯の治療に歯医者にもよく通うようになりました。
将来の職業について、父は私に特別に指示を出したことはありませんでしたが、私自身は子供心に「医者になりたい」「テレビ局に勤めたい」などと漠然と将来の職業に思いを馳せていました。一度だけ父親と同じ新聞社に勤めたいと父に言った時は「新聞社は人が多いから大変だ!」と一言呟いたことが、今でも記憶に残っています。 その頃から、私は心のどこかで歯科医師になることを夢見ていたのかもしれません。
体は丈夫にはなっても歯医者通いはなかなか止まらなかった小学6年生の時に、なぜか私は誰もなりたがらない小学校の児童会の会長に立候補しました。普通は他人から推薦を受けてしぶしぶ立候補する児童会の会長に、私は自ら立候補しました。しかし会長の選挙が行われた結果、私は年が下の5年生の○○君に大差で敗れてしまいました。おそらく病弱で暗かったクラスの人気者では決してない私は人望が無かったのだと思われます。心のどこかで私を認めて欲しいと言う思いから立候補した私は、年下の5年生に敗れてしまい、「やはり誰からも認められないのか?」と、大変傷ついたものでした。
誰もやりたがらない岡山大学歯学部同窓会の会長を10年間務められたのも、子供時代の記憶に原点があるのかもしれません。
小学校の時は病弱で暗くて変わり者だった私も中学に入る頃には、病院通いはほとんど無くなっていて体もかなり元気になってきました。
小さな頃からサッカーを見るのが好きだった私は中学校に入るとサッカー部に入部するのが夢でした。しかし私が入学した石井中には悲しい事にグラウンドが狭いためか?サッカー部はありませんでした。
体を鍛えた方がいいと言う父の薦めもあり、結局私は陸上部に入部しました。団体競技は他の人の足を引っ張ることはあっても、個人競技なら個人の成績だけなので例え自分の成績が悪くても他人に迷惑をかけることはないと思ったからです。しかし、これは大きな間違いだと後から気が付きました。
ある時に「岡山県中学校駅伝大会」という大きな大会に出場しました。これは陸上部での唯一の「団体戦」だったのです。その駅伝大会には、私たち陸上部以外に同じ石井中の「野球部」も参加していました。
顧問の先生から「同じ学校の野球部に負けると陸上部の恥だ!絶対負けるな!!」と大会前に発破をかけられていた私たち陸上部のメンバーは、誰もあの結末を予想していませんでした。
第1走者の水川は奇跡の走りを見せて40チーム中、何と第1位で競技場に帰ってきました。そのすぐ後ろには野球部の走者が今にも抜きそうな勢いで迫ってきていました。
第2走者の私は正直とても焦りました。駅伝は周りのランナーのスピードに合わせる駆け引きが必要なのですが、私は一番前を走らなければならなかったからです。
私は、すぐ後ろにいる野球部エースで女子に人気の岡本君に焦ってしまい、前半からペース配分を全く考えない走りをみせて、後半には案の定バテバテとなり多くの走者に次から次へと抜かれたのでした。20人に抜かれた私の記録は、当時岡山県下の駅伝大会でワースト記録となりました。
今でもその記録は塗り替えられていないと聞いています。その時から私は負けず嫌いになりました。
高校こそはサッカー部に入ろう!と入学した大安寺高校のクラブ説明会の後に、私は友人と2人で入部申し込みのためにサッカー部の部室に向かいました。
サッカー部の部室は運動部の部室が集まった区画の一番奥にあったのですが、その手前にあるハンドボール部の前を通りがかった時に、先輩に呼び止められました。私たち2人はその先輩から、自動販売機のジュースをご馳走になりました。
「ジュースを奢ってやったんだからお前たちはハンドボール部決定な!」とコワモテの先輩に言われた私は、高校生活の3年間をハンドボール部で過ごすことを決めました。(友人は1ヶ月で先輩とケンカして辞めてしまいました)
私の押しには弱いが、粘り強い性格はこの当時から現れていました。
当時の大安寺高校のハンドボール部は、顧問の永井先生の指導が優秀で岡山県下でもインターハイが狙えるポジションにいました。そんなレベルの高いクラブで私がレギュラーになれるわけも無く、時々試合に出してもらっても足を引っ張ってばかりいました。
しかし、その時のハンドボール部の友人とは今でも1年に1度は集まって飲みにいく間柄であり、本当にありがたいことだなと感謝しています。
ハンドボール部で自分なりに頑張る反面、別の仲のよい友人が学校には内緒でバイクを買うのを見て、物欲の固まりの私もとてもバイクが欲しくなりました。
夏休みは部の合宿で無理でしたが、春休みと冬休みはバイトに明け暮れて免許を取るお金とバイクを買うお金を貯めたものでした。アルバイトは、野外の電気工事や八百屋での店頭販売、マラソンなどのイベント手伝いなどを主に行い、念願の中古のバイクを買うことができました。大学の時はバイクで九州1周とか北海道1周とか寝袋を持って長期のツーリングに何度も出かけました。
私の放浪癖、旅行好きはこの頃形成されました。
高校の仲のいい友人が医学部を志望する中、過去の経験と私が高校在学中に地元の岡山大学に歯学部が新設されたために、私は岡山大学歯学部を第一志望として目指し、運良く試験も合格して岡山大学歯学部2期生として入学することになりました。
岡山大学歯学部は長崎大学歯学部と共に、歯学部・歯科大学の中で一番新しく一番歴史が浅い学校でした。私が入学したときも、最初は先輩も一期上しかいないために同じ大安寺高校出身の医学部の先輩にお世話になったものです。楽しみにしていたクラブも、岡山大学歯学部には当時全くありませんでした。
中学、高校と運命に弄ばれて(?)サッカー部に入部できなかった私は、友人に「歯学部サッカー部を作ろう!」と呼びかけ歯学部サッカー部ができました。
私たち歯学部創設メンバーでしたが、最初はグラウンドがなかったため運動公園で練習していました。しかし、元々運動神経に少々欠ける私と、中学高校と6年以上サッカーに親しみ国体選手にも選ばれたことのある友人たちとのレベルの差は歴然としていて、その当時は、サッカーをやろうと声を掛けたことを少し後悔したものです。
歯学部での6年間のうち、最初の2年間は最低の最低の単位だけ取って、クラブ以外はアルバイトに明け暮れました。
家庭教師、塾の講師など、条件がよいバイト以外に当時岡山駅前にあった「ドムドム」と言う24時間営業のハンバーガーショップで、夜10時から朝8時までアルバイトをして、そのまま学校へ向かうと言う生活を繰り返していました。
深夜のハンバーガーショップは、田舎者で奥手の私が今まで見たことも聞いたこともない世界が毎晩繰り広げられていました。
そこでの経験は今でも人間を見る目を養うのには大変役に立っています。
しかし、昼間は大学で講義中に寝るということを繰り返して、全く勉強をしない2年間でもありました。歯学部の3年目になると、キャンパスが鹿田キャンパスに移動します。
3年目からはみっちり詰まった過密スケジュールになり、だらけ切っていた私の体はすぐに悲鳴をあげましたが、周りの友人の励ましで何とか付いてゆく事が出来ました。
歯学部は6年間あり、歯科医師の国家試験に合格して初めて歯科医師のライセンスが得られるのですが、卒業後の進路はさまざまです。
大学病院に勤務する者、大学院に進学する者、開業医に勤務する者、その他に分かれます。私は縁あって、学生時代からお世話になっていた岡山大学歯学部歯科補綴学第1講座の医局へ入局することになりました。
補綴(ホテツ)とは、歯を失った所に歯のかぶせや入れ歯を入れる学問のことで、当時第1補綴の教授は山下敦先生でした。
学生時代、第1補綴の山下先生の最初の講義のことは今でも覚えています。
卵からかえったばかりのひよこが、最初に目にした物を自分の母親と思いこむというビデオでした。最初は何を言いたいのかよく理解できなかったのですが、卒業間近になって気がつきました。
これは卒業後、初めて入局する医局や就職する医院が、これからの歯科医師としての人生を大きく左右するという山下先生からのメッセージだったのです。
卒業後、この山下教室に研究生として残った私は、すぐに先輩の先生と共に歯とレジンと呼ばれるプラスチックの接着についての研究に取り組みました。研究結果は日本補綴歯科学会や日本接着歯科学会という学会で発表し、論文も掲載されました。
この時の歯とレジンやセラミックという材料の接着歯学という分野の研究が、後に私の審美歯科治療、セラミック治療に大きく影響を与えてくれました。
山下先生は現在は既に大学を定年退職され、ご自宅で開業されていますが、今でもときどき論文を送ってくださり、強く影響力を受け続けている先生の1人となっています。
私は大学卒業後、4年間の大学生活、1年間の開業医での勤務医を経て、平成4年4月に現在の岡山市の郊外、北区矢坂東町に歯科医院を開業しました。住宅地の田んぼの中という立地ながら、当初から常勤の歯科衛生士を4名配置しました。私は、歯科医院でチーム医療を行ううえで、歯科衛生士をもっとも強力なパートナーと考えていたからです。
また、当院は開業時からインフォームドコンセント(説明と同意)を重視しているため、カウンセリングルームを完備しています。審美歯科治療のみならず全ての患者様に治療計画書を提示して、治療前にじゅうぶんなカウンセリングを行うことを医院の使命としてきました。
また、ここ数年の審美歯科、歯のホワイトニング治療のニーズの高まりも受けて平成15年6月には中国四国地方初となる歯のホワイトニング専用ルーム「ホワイトニングルーム」をオープンしました。
このホワイトニングルームでは、従来の歯の治療のスペースと異なる専用のサロン風スペースにてあなたの歯を白く輝かせることが可能です。 ホワイトニングルームのシンボルカラーはエルメスオレンジです。実は今のホワイトニングのイメージをカラーで現わすと、ホワイトの次がこのオレンジとなるのです。
このホワイトニングルームでは岡山という地方都市で、東京などの大都市に引けを取らない審美歯科治療や歯のホワイトニングが受けれることを目指しています。
また平成17年5月には『人生をより輝かせるデンタルケア』の提供のために完全個室で歯を削る事の出来ない歯科衛生士専用の予防ルーム「笑顔創造空間」を2台増設します。その空間にはまた個室のカウンセリングルームを新設して、患者様の悩みを今以上に聞く体制を整えます。
私たちの進化は決して止まりません。岡山で歯科医院のフロントランナーとして中学時代は陸上部で抜かれまくった私も今は一番前を常に走ってゆきたいと考えています。

















